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平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏 その3
「宿題をやらずに学校に来たような気持ちでジロをスタートした」
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1992年の春先、市川さんは落車し入院生活を余儀なくされた。
心機一転1993年はイタリアのナビガーレチームに移籍。しかし、その年も春先に大怪我に見舞われる。
強風で飛んできた木の枝が前輪に入り落車。顔面を骨折してしまったのだ。
3年ぶりにジロ出場のチャンスが巡ってくるも顔にはチタンプレートが入っている状態。全くコンディションが上がらないまま出場する事になってしまう。
「プロロードって興行だからさ、春先のイタリアのレースでその年のジロに使うルートを組み入れて盛り上げるわけ。”5月にはここにジロが来ますよ〜”ってね。オーガナイザーも選手もコースを予習しておける良いシステムだよね。でも93年はそれが走れなかった。ジロには何だか宿題をやらずに学校に来たような気持ちで入った」
こうして始まった2回目のジロだが市川さんは途中まで好走を見せる。
「しっかり準備して出てたら総合で20-30位前後には行けると思ってた。最初より2回目の方が心身ともに余裕あるでしょ。でも春先病院で寝てたんだからそりゃキツいよね。」
走り込み不足は距離への耐性を落としていた。
迎えた土砂降りの第13ステージ。ドロミテ山塊を覆う冷たい低気圧がヒョウを降らせる中、チームカーが上手くジャケットを渡せず体を冷やしてしまった市川さんはフィニッシュ後に体調を崩し翌日には肺炎を起こしてしまう。
ドクターストップがかかり残念ながら2回目のジロはここで終わりを迎えた。奇しくもそれは90年ジロで大ブレーキに見舞われたポルドイ峠を登るステージだった。
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「準備不足でジロに入っちゃったし何だかジロに失礼なことをしたような気がしてた。」
こうして終えたジロは、プロ生活の終わりも意味していた。
続く
写真: サイクルスポーツ1993年8月号 三宅寛氏 提供: 市川雅敏氏
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中田尚志
平成を駆け抜けたプロロード選手 市川雅敏 その2
1990年 世界選手権 宇都宮大会
「最悪だったね。」
市川さんは当時を振り返ってつぶやく。
「スタート地点でまだウダウダ言われたら走るの止めようと思ってた。」
(1)自分たちの時代
1990年は自身の好調や同年代の選手が活躍しだしたのを見て「自分たちの時代が来た」と感じていたという。プロ生活は4年目。29才になっていた。
その年の8月に宇都宮で世界選手権が開催された。
ジロを総合50位で終えた市川さんにとってこの大会はキャリア最高の時期を飾る凱旋帰国のレースになるはずだった。
「自分が選手をやっている間に日本に世界選手権が来ることはもう無いと思う。頑張りたいね!」
涼しい北海道で調整した市川さんはTVインタビューにそう答えている。
(2)日本と欧州の間で
アジアで初めての世界選手権開催とあって主催者は多くの式典やパーティを準備し、市川さんはその場に頻繁に駆り出された。
プロロードマンの体調を考慮してくれるようなことはなく、レースを前に練習にさえ行けずにコンディションは落ちる一方。しかし、スタッフがスケジュール調整をしてくれるわけでもなければ直接交渉する手立てもない。
自国開催の世界選手権で良い走りがしたい市川さんのストレスは溜まる一方だった。
「プロロード選手の練習時間なんて誰も分かってないわけよ。競輪のプロも居たけど彼らは6時間も乗らないしね。」
プロロードの世界を理解していない周囲に全てを一から説明しなければならないストレスから市川さんは孤独感を深めていく。
追い打ちをかけるようにストレスを与えたのは「ウエア問題」。
日本チームのウエアは当時ミズノがスポンサーしており、上下ミズノ製ウエアを着用することを求められた。
「プロはさ、下は所属チームのレーパンで上はナショナルチームのジャージを着るってのが当然じゃない。でもスポンサーなんだから上下着てくれって言うんだよね。メチャクチャだよね。普段給料もらっているのはフランク(所属チーム)なんだからさ。」
精神的なストレスが解消したとしても身体的な問題があった。
レーサーパンツを変えることでサドルの高さが変わってしまい本来のポジションが取れない。
それはコンマ・ミリ単位でサドルの高さを調整していた市川さんにとって、レースでパフォーマンスを発揮できなくなることを意味していた。
しかし市川さんが最もストレスを感じたのは、会社側と直接交渉出来ないことだった。
「会社の人と直接話せないんだもん。チームの関係者が”ミズノがそう言っています”って言ったってラチが開かないよね。」
ヨーロッパでは代理人を通さず常に一人でチームの代表と交渉してきた市川さんにとって違和感を覚えるのは当然だった。
本番を前に欧州では当然とされている慣習が自国では理解されない歯痒さを抱えることになる。
渡航当初に経験してきた欧州レース文化のカルチャーショックは、今や体の一部になり自身の価値観になっていた。
スケジュール調整にしろウエアの問題にしろ交渉する担当者さえハッキリしない日本のシステムに市川さんはストレスを募らせた。
一方ミズノ側にしてみればアマチュアが上下自社製品を着用するのに、プロロードの選手だけが他社製品のレーサーパンツを着るというのは許容出来ない行動だった。
最も注目度の高いプロロードでエースの市川さんが自社製品を着用しないのは彼らにしてみれば逆宣伝になってしまう。それだけは避けたかったのである。
結果的に話し合いは平行線。
当日まで全くレースに集中出来ない状態が続き、スタート前でさえまだ話し合いは続いた。
「スタート前にまだ(話し合いを)やってんの。俺たち今から260km走るの分かってんの?って感じだよね」
結論は出ないまま市川さんは普段どおり所属チームのレーサーパンツを着用してスタート地点につく。
「チーム関係者に”はいはい分かりました”って言いながら、フランクのレーパンで準備した。だって責任者と話せないんだから。発言に責任取る必要ないでしょ。」
「スタート地点でまだウダウダ言われたら、走るの止めようと思ってた。」
(3)世界選手権プロロード
混乱の中でスタートした世界選だが市川さんは沿道の観客の多さに驚いたという。
「自分がヨーロッパで走ってるなんて誰も知らないと思ってたし、日本にこんなにもプロロードのファンが居たんだって。お客さんは本当多かったよね。」
前日までのゴタゴタですっかりコンディションは落ちていたが完走。
「集団から千切れて止めようかな〜って思ってたら、ロミンガーが”おいマサ、ここで止めたら暴動が起きるぞ。一緒に走ってやるから最後まで行こう。”って言うんだよ。プロって勝負に絡めなかったらさっさと止めるんだけど、その日だけは最後まで走ったね」
多くのレースを共にしたトニー・ロミンガー、ヨルグ・ミューラー、ロルフ・ヤールマンのスイス勢と日本の三浦恭資選手と共にフィニッシュ。
フィニッシュラインではスイス勢に前を譲り感謝の意を表したという。
こうして日本初の世界選手権が幕を閉じた。
続く
#市川雅敏
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中田尚志
takashi( @ ) peakscoachinggroup.com